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―社会心理学からのアプローチ―
文化としての日本人論は、1948年に米国の文化人類学者であったベネディクト著『菊と刀』が敗戦直後の原典でした。これは、日本人の精神構造の分析で“義理”と“恥”を特質化しました。その後日本人の心と恥について西洋比較文化論として、多数の著書や論文が発表されました。
恥や羞恥心について思い巡らすと、旧約聖書のアダムとイブにも恥がでてきますし、西洋文化圏と交流のない少数民族にも恥の感情があります。しかし日本では1990年代後半から街中で見られる様々な行為―電車内や道端に座る、電車内で化粧や飲食するなどーすなわち逸脱した行動が、どうして日常見られるようになったかを社会心理学の視点から読み解くのが今日のテーマです。
江戸時代、国民の80%が農耕生活であり、代々受け継いできた田畑を守り、人と人との親密さを決定づけたのは、血縁と地縁でした。いわゆる身内関係であり互いに支え合っていました。旅に出れば他人の世界であり“旅の恥はかき捨て”と言うように他人を気にする必要は低く必要も感じなかったようです。日本人が恥ずかしさを感じる相手は、身内と他人の間に依存する中間的な世間でした。すなわち、同じ村落に住む人々など地域社会との関係であり、習慣・ルールが成立して継承されていました。
江戸時代から明治期に入って、社会秩序を乱す行為は批判を浴び村八分が増えました。このように世間の目を気にする動向は、現代でも社会の根底を支えて“世間の常識”として生きづいています。しかし一方では、近所と仲良くする考えが薄れて、気遣う感性が乏しくなりました。失態を見られても実害はなく、人の視線に無頓着です。大勢の人々が集う公共空間で好きなように振舞い、ジベタリアンも地域社会の他人化の影響です。世間の基準に代って“自分本位の基準”すなわち他人への配慮ではなく、自分の利益を回避することを目的とし、自分の感性や利害を優先し自分の利益につながる他者を利用します。正に無関係な他人同士です。羞恥心は個人が社会から排除されないための仕組みです。何を恥ずかしいと感じるかは、個人がどの集団に留まりたいかによって変わります。
唯一神が人の心の中で占めるキリスト教やイスラム教の世界では、宗教的な規範を人々が共有しています。規範に背けば社会の批判は免れません。世間の目ではなく神の目を意識します。従って、彼らは内面的な罪や恥の意識を育んでいます。一方、日本人には唯一神がなく、基本的な社会ルールは人間関係の中でつくられます。そのために、その時代や社会情勢によって規範が変化します。恥しさは環境要因によって大きく影響され、どの程度の恥らしさを感じるかは、自分を評価する人との関係によって決まります。つまり、相手次第で羞恥心の働きは変化します。今の街中の状況を見るにつけ、本来恥意識を規定した地域・共同体社会の影響力は薄れています。ジベタリアンが現れる公共空間は、他人同士が集う場所となり、周囲の視線を気にしない自分本位の基準の台頭です。特に共同体社会と無縁なあるいは少ない若年層にとって、無関係な他者の中で羞恥心という社会的警報装置が起動せず、彼らの基準に則っているからです。1990年代以前では、親は社内で騒ぐ子どもを“そんなことをしていると、みんなに笑われるよ”と諭しました。嘲笑という親も恥をかきたくないとの思いで悪さをやめさせました。しかし今や“そんなことをしていると、誰かに怒鳴られるよ”と子どもに注意します。このことは大声を出したり、怖そうな人が場を制するという他人社会の論理で、恥しさを覚えたのではなく納得を強制する決め方です。欧米では“そんなことをしていると、みんなに迷惑ですよ”と注意します。これは善悪が判断基準です。
確かに、私たちは新たな共同体である職場、業界、政治経済ネットワークや最近のようにウェブ社会を構築しています。この新しい世間に属していれば生きていけます。しかしウェブは、誰かと繋がっていても顔を見合わせる機会がありません。見知らぬ人である他者の視線を気にする必要がなく、羞恥心の領域は特定の人間関係という狭い自分の領域に集約されます。他者との関係は、気が向いたときだけパソコンでチャットするだけでは狭くなります。若年層の心の構造は、他者からどう見られるかを感知するセンサーが働かず、見ている私たち側が不快に思ったり批評しようが無関心です。彼らが恥しいと感じるのは、若者らしくない姿や行動です。若さの証明として成人することに嫌悪感があり、流行への関心も高く自己アピール欲求も強いようです。若さを失うことは、価値観を共有している仲間から疎まれ仲間はずれされる危機をもち、彼らの羞恥心は同年代の仲間に対して強く作動します。
私たちは日々自分に気を配って生活しています。仕事がうまくいったり、人に褒められたりすれば、自尊心は高まり叱られれば自己嫌悪に陥ります。外界の変化だけではなく、自分の姿に対して敏感に反映します。羞恥心は社会で生きていく装置であり、この装置は万国共通です。
次に中高年層の羞恥心に言及すると、“今更、恥しいことなどない”“この期に及んで格好をつけない”と言います。確かに他者から自分がどう思われるかを気にするのは、思春期から青年期がピークで他者からの評価や羞恥心も活発に作動します。
一般的に、年齢を重ねて社会の中で自分の居場所が定まれば、さほど人目を気にせず羞恥心が衰えるという俗説があります。
最近の調査では、年齢が高いほど嘘をついたり、約束を破ったりといった社会的信頼を損う行為について羞恥心が増すことが判りました。男女共、格好の悪い失態について若い人よりも敏感です。その理由は、これまで培ってきた人間関係を壊してしまう恐れがあるためです。高齢者になればなるほど、社会的信用や品性といったイメージを守ります。
自分の利益と一致しない人たちは、他人として位置づけて、利益を共有できる相手だけがパートナーになると、狭い世間になります。欧米人は良心に照らして自分の行動を抑制しますが、日本人は他者の目や顔色を気遣って自分を律します。
現代の日本社会は、伝統的な世間の崩壊と他人領域の拡大という様相です。職場でも隣は何する人ぞという“個職化”が進んでいます。公共空間での逸脱行為は個人の問題ではなく、社会と密接に関わる現象です。老若男女に見られる公徳心の欠如は、羞恥心が働かない心性が作動しています。無神経な高慢さは人としての羞恥心がないためです。
村井 徹
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